1992年度を調査!

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目 次

当時の習慣

毎週日曜日は?

 『読売新聞』(読売新聞社)の日曜版に『とべ!アンパンマン』が掲載。この年は第119回から第168回まで。次年度へ続く。

毎週月曜日は?

 夕方5時から5時半に…。あれっ!? 何だっけ? 確か関東地区のテレビだったと思うのだが…。まあ、いいか。気になるけど、忘れたから仕方がない。

毎月7日は?

 『月刊詩とメルヘン』(サンリオ)の発売日。『きまぐれ絵日記』には時々、『アンパンマン』のイベントなどが書かれた。

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できごと

『アンパンマンとペンキマン』が刊行!

 1992年(平成4年)4月、フレーベル館。『アンパンマンメルヘン』の第7回配本。

『アンパンマンとさばくのたから』が掲載!

 1992年(平成4年)4月、フレーベル館の月刊保育絵本が定期購読している全国の幼稚園や保育園などに配布。そのひとつである『キンダーメルヘン〔5月号〕』で。2004年(平成16年)3月に刊行された同名の絵本は別の作品。歴史が長ければタイトルがだぶるというミスもあるだろう。

ありがとう!いずみたく先生

 1992年(平成4年)5月11日、肝不全のため天国へ旅立たれた。『手をひらを太陽に』を始め、やなせ先生とアンパンマンソングも含む数多くの童謡を作り続けた作曲家。まだ62歳。『すすめ!アンパンマン号』が遺作となった。

この方々と共に…

 伝説のシンガーソングライターの尾崎豊さん、ヤクルトの日本一に貢献した元プロ野球選手の大杉勝男さん、『サザエさん』で有名な漫画家の長谷川町子先生、『上を向いて歩こう』で有名な作曲家の中村八大先生、小説家の松本清張先生が旅立たれたのもこの前後。長谷川町子先生は国民栄誉賞に選ばれる。

亡くなる前日は?

 『やなせ・たかしの世界』が開催中の川崎市市民ミュージアムでギャラリーコンサートが行われた。歌の多くはいずみ先生の作曲だろう。詳しくは『月刊詩とメルヘン〔1992年8月号〕』(サンリオ)に掲載された『気まぐれ絵日記』の第130回を参考。

アンパンマンとの出会いは…?

 これについては、ふたつの説がある。
 まず、『月刊詩とメルヘン〔1991年6月臨時増刊号〕 やなせ・たかしの世界』(1991年5月19日、サンリオ)に掲載されたいずみ先生のインタビューだと、やなせ先生と童謡を毎月ひとつ作る約束をし、その中で生まれたテーマソングが最初のアンパンマン≠セったという。この時点では一体どういうヒーローなのかもイメージができず、やなせ先生に尋ねたとも。
 一方、やなせ先生は、『手のひらを太陽に』の創作50周年に『生きているから歌うんだ!』(2011年7月27日、バップ)というCD-BOXが発売され、付属されたブックレットでアンパンマンソング誕生の秘話≠解説。それによると、いずみ先生はかつて『月刊詩とメルヘン』に連載していた『怪傑アンパンマン』の読者の1人≠セった。テーマソングを作ったのは、いずみ先生から『怪傑アンパンマン』をミュージカル化する話があったからだという。先ほどのいずみ先生のインタビューとは順序が異なるのが気になるところ。実際にはどうなのだったか…?

いずみ先生はこんな人!

 テレビ朝日の『徹子の部屋』のテーマ曲はいずみ先生の作品。アニメソングも色々あるが、全世代共通(?)は、やはり、『ゲゲゲの鬼太郎』だろう。
 いずみ先生をよく知らないという人も間接的≠ノ影響を受けていたりする。例えば、NHKの『おかあさんといっしょ』に携わったという話は聞いたことがないが、作詞家の井出隆夫先生(山川啓介)のデビューのきっかけを作ったのは、いずみ先生だという。
 井出先生は『北風小僧の寒太郎』を代表に数多くのキッズソングを手掛け、1982年(昭和57年)から2000年にかけては『おかあさんといっしょ』で、『にこにこ、ぷん』、『ドレミファ・どーなっつ!』の脚本も担当した。この時代の子供たちは、いずみ先生がいなかったら、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり、みど、ふぁど、れっしー、空男というお友達に出会えなかったかもしれないという訳だ。
 もっといろいろなことに興味を持てば、意外なところでいずみ先生のエピソードが出てくるだろう。

『やなせ・たかしの世界』が伊東でも!

 1992年(平成4年)5月31日開始。場所は伊東ふれあいセンター。水曜日は休館。 6月30日で一度終了するが、その後、7月30日から8月31日、12月3月から翌年1月31日、3月4日から3月29日と再開される。時間は午前9時から午後6時。
 初日は、歌手の中山圭以子さん、伊東市の少年少女合唱団、そして、やなせ先生とアンパンマンのキャラクターたちが、センター前の公園で『青空コンサート』を行った。その模様は『月刊詩とメルヘン〔1992年9月号〕』(サンリオ)に掲載された『気まぐれ絵日記』の第131回を参考。

『アンパンマンとモグとモク』が刊行!

 1992年(平成4年)6月、フレーベル館。『アンパンマンメルヘン』の第8回配本。

いずみたく先生の思い出

 1992年(平成4年)7月7日、サンリオから『月刊詩とメルヘン〔8月号〕』が発売。『気まぐれ絵日記』の第130回は、いつもより2ページ拡大したいずみたく先生の追悼特集。編集後記でも触れ、病室にはオルガンを持ち込んだという。最後まで作曲家だった。

幻の記念コンサート

 来年は『月刊詩とメルヘン』の創刊20周年。そのイベントについて、いずみ先生と話し合っていたところだったという。

遺作の『すすめ!アンパンマン号』

 次のミュージカルで『アンパンマン』の新曲を発表することになっていた。歌詞を渡した時はもう鉛筆も握れない状態だった。ほかの人に頼もうという話もあったが、いずみ先生はどうしても自分で作りたいと言った。庸子夫人の協力もあって『すすめ!アンパンマン号』は完成した。録音テープがやなせ先生のもとに届いたのは『気まぐれ絵日記』の追悼特集を書いていたタイミングだったという。

『アンパンマンとマオーのしろ』が刊行!

 1992年(平成4年)8月、フレーベル館。『アンパンマンメルヘン』の第9回配本。

絵本のメロンパンナ

 この作品が初登場。ジャムおじさんが密かに作っていた仲間だった。『やなせ・たかし大全』(2013年11月、フレーベル館)では『メロンパンナのぐーぐーぐー』(1993年6月、フレーベル館)がメロンパンナの絵本初登場となっているがこれは間違え。

『アンパンマンとピエロのトンネル』が刊行!

 1992年(平成4年)10月、フレーベル館。『アンパンマンメルヘン』の第10回配本。

『おむすびまん〔6〕 おばけきのこのくに』が掲載!

 1992年(平成5年)10月、フレーベル館の月刊保育絵本が定期購読している全国の幼稚園や保育園などに配布。そのひとつである『キンダーおはなしえほん〔11月号〕』で。

『アンパンマンとえんぴつじま』が刊行!

 1992年(平成4年)10月、フレーベル館。『アンパンマンメルヘン』の第11回配本。

『やなせたかしの世界展』が銀座で!

 1992年(平成4年)10月27日から31日まで。場所は銀座ラ・ポーラ。時間は午前10時から午後7時。最終日は午後5時30分までとなっている。情報は『読売新聞〔1992年10月26日付ぴーぷる〕』(読売新聞社)から。

『アンパンマンメルヘン』が完結!

 1993年(平成5年)1月、フレーベル館。第12回配本の『アンパンマンとぶんぶんぶん』が最後の作品となる。1991年(平成3年)4月に創刊され全12巻となった。『月刊詩とメルヘン〔1993年1月号〕』(サンリオ)に掲載された『きまぐれ絵日記』の第136回によると、最終巻の原画は前年10月26日に描いたという。日本シリーズも同時に決着した。

この2年でこう変わった!

 奥付にはやなせ先生のプロフィールが載っている。1991年4月に発行された1巻の第1刷では『アンパンマン』の市販向け絵本が「総点数120点」と書かれていた。それが2か月後の6月に発行された3巻の第1刷では「150点」に修正。そして、最終巻の第1刷では「200点」となる。カウントすべきではない絵本も含まれているとは思うのだが。寂しいのは作曲家のいずみたく先生とのエピソード。「子どもの歌も作った」が、1992年5月に天国へ旅立たれため、同年8月に発行された9巻の第1刷から「子どもの歌も作り続けている」と過去形≠ノ書き直された。

『エコロジー漫画展』が群馬で!

 1993年(平成5年)3月、高崎市石原町の山徳記念館にて。20日まで。情報は『朝日新聞〔1993年3月3日付朝刊〕』(朝日新聞社)の地域面から。

『じぶんでつくるアンパンマンえほん』が創刊!

 1993年(平成5年)3月、フレーベル館。番外編的な位置づけの絵本レーベル。その名の通り、読者参加型≠フシステムで、著者のとろこにもやなせ先生と連名で自分の名前が記入できるようになっている。第1回配本は『アンパンマンとぬりえまん』。ぬりえのあとは自分でストーリーを作り直すことも。巻表示が気になるが、続きらしき本は見つからず。

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